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実在した山鹿流陣太鼓 [つれづれ日記]

CHUUSINGURA.jpg忠臣蔵十一段目夜討之図、歌川国芳作(忠臣蔵(Wikipedia)より引用)
yamagasokou.jpg赤穂城二の丸門跡そばにある素行の胸像(山鹿素行(Wikipedia)より引用)

赤穂事件で戦闘開始前に大石が山鹿流陣太鼓を打って「闇討ちにあらず、正式な戦争である」旨を伝えたと、井沢氏の真説「日本武将列伝」にあった。

上杉家からかなりの侍が吉良家護衛のために部屋住で派遣されており、彼らは吉良邸の壁沿いにあった長屋に居住していたはずである。
彼らが全員戦闘に参加すれば、赤穂浪士は半分も帰任できなかったはずだ。

彼らが殆ど長屋から出てこなかったという赤穂事件の「奇妙な事実」がある。

その当時、吉良上野介の嫡男は縁あって出羽米沢藩主上杉綱憲となっていたのである。
吉良家は古くは扇谷上杉氏の血を引いていることから、吉良上野介の妻が出羽米沢藩主上杉綱勝の妹・三姫(後の富子)であった。

『寛文4年(1664年)閏5月、米沢藩主上杉綱勝が嗣子なきまま急死したために改易の危機に陥ったが、保科正之(上杉綱勝の岳父)の斡旋を受け、(吉良義央の)長男三之助を上杉家の養子(のち上杉綱憲)とした結果、上杉家は改易を免れ、30万石から15万石への減知で危機を収束させた。』(吉良義央(Wikipedia)より)

実父がなぶり殺しにあっているのに、長男が救いに行かないはずはないというのが人情である。

しかし、肝心の上杉家からは助っ人の犬一匹すら出動しなかった。

井沢氏のいう山鹿流陣太鼓が実在し、「これは乱暴狼藉ではない、浅野家と吉良家の正式な戦争である」と宣言してから大石が討ち入ったとすれば、上杉家から派遣され吉良家内に住んでいた助っ人が動けなかったことの納得がいく。

正式な兵法に基づく宣戦布告であるならば、上杉家家臣は上杉藩主の命令がなければ戦えなくなるはずだ。
これが夜盗の討ち入りなら違法行為なのでめった斬りしてもよいが、兵法上の戦争となると他家の武士はその動きに拘束が入る。

大石がそこまで考慮して陣太鼓を打ったとすれば、それは大したものである。

しかも幕府の老中の稲葉某(私の記憶によれば)の手回しにより、朝の4時、5時という早い時間に上杉家に助っ人禁止の通達が届いていた。

ずいぶん幕府側の手回しが良すぎる。
稲葉氏とは春日局の前夫と同じ姓であるが、時代はかなり下がっているものの少しひっかかる。

朝廷側のスパイが「幕府方」として上杉藩制止に動いた可能性もある。
浪士47人はドラマ忠臣蔵の素材である。
全員無事に泉岳寺へ届ける必要があるのだ。

赤穂事件の発生する前にシナリオの概略は書かれていたのではないだろうか。

しかし、ネットで検索した一見信頼できる資料には「山鹿流陣太鼓はうそっぱち」だと書いてある。
私はこれらを読んで今まで「山鹿流陣太鼓は嘘の話だ」と信じ込まされていたのだ。

これはネット社会の一つの怖さでもある。
ほとんどは事実であるが、肝心な部分で嘘をつく。
その影響はとても大きい。

『山鹿流(やまがりゅう)は、山鹿素行によって著された兵学(兵法)の流派。

諸藩でも普及しており、肥前国平戸藩では山鹿素行の一族の山鹿平馬が家老に、素行の次男である藤助が兵法師範に採用されて山鹿流が伝来している。

長州藩では吉田松陰が相続した吉田家は代々山鹿流師範家であり、松陰も藩主毛利敬親の前で「武教全書」戦法偏三の講義を行っている。
実の叔父にあたる玉木文之進も山鹿流兵学に明るかった。(萩市史第一巻)。

また、筑後国柳河藩でも山鹿流兵法師範がおり、文久年間に柳河藩士卒が山鹿流に編成されている。

山鹿流陣太鼓

山鹿流といえば、歌舞伎・人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』のなかで、赤穂四十七士の吉良邸討ち入りを指揮する大星由良助が合図に叩いた「山鹿流陣太鼓」が有名だが、実際には山鹿流の陣太鼓というものは存在せず、物語の中の創作。』
(山鹿流(Wikipedia)より)

「実際には山鹿流の陣太鼓というものは存在せず、物語の中の創作」という表現を見ておかしいと思わないだろうか。
本当に歌舞伎原作者の創作ならば、「単なる創作」とさらりと書けばよい。

「山鹿流の陣太鼓というものは存在せず」とわざわざ前段で飾らなければならないほどに、その実在が信じられていたのではないだろうか。

「実際に太鼓はあり、大石は打った」と私は考えたい。
本所松坂町の吉良屋敷周辺の住民や豆腐屋はその音を聞いたはずだ。

証人が少なからずいる限り、事件の黒幕にとっては「太鼓は存在しなかった」と強調する必要があったのである。

豆腐屋はその事件現場に最初に遭遇している。
異変を察知し、その足で急いで上杉家へ連絡に走ったのだ。

吉良のお坊ちゃんが上杉藩主に養子に行ったという目出度い情報は松坂町内住民の当然知るところである。

吉良屋敷に夜討ちがあるとなれば、それは「赤穂の浪人たちの仇討ちだ」というのも江戸っ子には百も承知のことだ。

「大変だ大変だ」と吉良のお坊ちゃんのいる上杉家へと早朝駆け込んだ豆腐屋の心情はよく理解できる。

しかし、上杉家家臣団は動かなかった。
吉良の実子である藩主は、じりじりして今にも駆けつけようとしただろう。

実父の命がまもなく消えようとしているのだ。

家臣団は藩主を押さえつけた。
上杉家のお家大事のためにである。

赤穂事件のあと、赤穂から平戸へと山鹿素行の血(子孫)は流れていった。
その血は幕末になって吉田松陰に兵法を注いでいる。

平戸は、鹿児島に上陸したザビエルが直後に九州布教の本拠地を築いた地でもあるが、そのことはあまり触れられていない。

筑前柳河藩に山鹿流兵法師範がいたことは知らなかった。

柳河藩は戦国時代に日本で唯一の女大名、立花誾千代(ぎんちよ)を輩出した土地である。

立花氏はキリシタン大名大友宗麟の家臣である。

『立花 誾千代(たちばな ぎんちよ)は、戦国時代の女性。

大友氏の有力家臣であった立花道雪(戸次鑑連)の一人娘として誕生。
名前に含まれる『誾』の字は“慎み人の話を聞く”という意味合いを含めて父・立花道雪が名付けた。

天正3年(1575年)に家督を譲られた。
道雪は娘に家督を継がせるため、通常の男性当主の相続と同じ手続きを踏み、主家である大友家の許しを得た上で、彼女を立花家の当主とした。

戦国時代でもまれな例と言われる。

天正9年(1581年)、高橋紹運の長男立花宗茂を婿に迎える。

豊臣秀吉の命により宗茂が柳川城へ移ると、立花山城の明け渡しに反対して宮永館へ別居、「宮永殿」と呼ばれた。

関ヶ原合戦に際しては、鎮西へ撤退してきた宗茂を、家士や従者など数十名を率いて自ら出迎えた。

後、加藤清正が宗茂に開城を説得すべく、九州に進軍した折、「街道を進むと、宮永という地を通ることになりますが、ここは立花宗茂夫人の御座所です。

柳川の領民は立花家を大変に慕っており、宮永館に軍勢が接近したとあれば、みな武装して攻め寄せてくるでしょう。」と聞かされたため、宮永村を迂回して行軍した。

宗茂が改易されると肥後国玉名郡腹赤村(現熊本県玉名郡長洲町)に隠居し、わずか2年後にこの世を去った。享年34。

柳河(現福岡県柳川市)移転後に宗茂と別居(事実上の離婚)するなど、夫とは不仲であったと言われ、夫婦の間に子供はいなかった。』
(立花ぎん千代(Wikipedia)より)

立花ぎん千代自身は柳河城に入らず別居していたようで、彼女が住んだ別宅の地が虎の異名を持つ加藤清正すら迂回した「宮永」だったのだ。

ぎん千代は女鉄砲隊を編成して宮永の屋敷を警護させていたという。
加藤清正が恐れるはずである。

私は「ぎん千代」にキリシタンの匂いを感じる。
刀と槍で武装した加藤清正が恐れたのは女主ではなく、鉄砲と大量の火薬で武装した家臣たちであったはずだ。
それらは天正時代にはポルトガル商人から買い求めるしかない。

ポルトガル商人には必ずイエズス会宣教師が同行していた。

ぎん千代が別居した理由は、子ができないことから宗茂が側女を取ったからである。
キリシタンには妾を容認する教えはない。

ところで春日局は稲葉家から離縁された後、しばらく大友宗麟の本拠地であった臼杵に住んでいたことがある。
以前NHK総合の番組で見たのだが、春日局こと斎藤お福の書いた書簡がかつてお福が世話になっていた旧家に保管されていて、それが紹介されていた。

その書簡には「将軍家光は斎藤お福の子」であると書かれていた。

家光を孕みそれを生むまでの間、臼杵の親族の家に長く逗留していたのではないだろうか。

それが事実であれば、徳川家光は家康の子であるということになる。

正式な歴史書では家光は秀忠の子、家康の孫となっているのだが。

臼杵に保存されているお福の書簡が正しいとなれば、第2代将軍秀忠と第3代将軍家光は、ともに家康を父とする異母兄弟ということになる。

秀忠、家光は双方が仲が悪く、互いに命さえ狙っていたという話が残るのも、そういうことと関係があったのかもしれない。

「赤穂事件」を扱う記事の中に、「合図の笛と鐘は用意したが、太鼓は持っていなかった」と書いてある。

太鼓ではなく鐘で合図を送ったというのである。

しかし、井沢氏は「山鹿流陣太鼓で宣戦布告をした」とはっきり書いているのである。
井沢氏の書いた逆説の日本史12巻を読んだが、彼は根拠もないこと書く人物ではない。

残念ながら真説日本武将列伝にはその根拠を示してはいなかった。

もう一つ、元禄赤穂事件(Wikipedia)の記事にも「山鹿流陣太鼓はもっていなかった」と書いてある。

『山鹿流陣太鼓と装束

山鹿素行が赤穂に配流になった縁で藩主が山鹿素行に師事し、赤穂藩は山鹿流兵法を採用していた。

映画やテレビドラマ、演劇では、雪の降りしきる夜、赤穂浪士は袖先に山形模様のそろいの羽織を着込み、内蔵助が「一打三流」の山鹿流陣太鼓を打ち鳴らす。

吉良家の剣客清水一学がその太鼓の音を聞いて「あれぞまさしく山鹿流」と赤穂浪士の討ち入りに気づくのが定番となっている。

実際には赤穂浪士は合図の笛と鐘は用意したが、太鼓は持っていなかった。

門を叩き壊す音が『仮名手本忠臣蔵』で陣太鼓を打ち鳴らす音に変わったのではないかといわれている。

また山形模様は『仮名手本忠臣蔵』の衣装に採用されて広く認知されるようになったものだが、先行作でも使用が確認されている。

実際には赤穂浪士は討ち入りの際は火事装束に似せた黒装束でまとめ、頭巾に兜、黒小袖の下は鎖帷子を着込んだ完全武装だった。
羽織などの着用もばらばらだったといわれている。

山形模様ではないが、袖先には小袖と羽織をまとめるため、さらしを縫い付けている者もいた。』
(元禄赤穂事件(Wikipedia)より)

山鹿流陣太鼓の存在を消そうとしている努力の後が見えるようだ。
実際に太鼓の音を聞いたものが松坂町にはいたのであるから、簡単には否定できない。

「門を叩き壊す音が『仮名手本忠臣蔵』で陣太鼓を打ち鳴らす音に変わったのではないかといわれている。」と苦しい言い訳をしている。

太鼓がなかったというのが事実ならば、そこまで気遣う必要などはない。

実際に大石は山鹿流陣太鼓を持っていてそれにより宣戦布告をしたのだろう。
その音を聞いたものが多数いたのである。

大石の宣戦布告があったということで、初めて吉良屋敷内の吉良側戦闘要員の少なさの説明が成り立つ。

では、なぜ歌舞伎の忠臣蔵にそれほどまでなかったことにしたかった山鹿流陣太鼓が登場してしまったのか。

隠すべきことだったのであれば、赤穂事件の黒幕が歌舞伎原作者に事件の後で書くなといえば済むことだ。

芸能界の差配までは黒幕にできなかったということだろうか。

いや、私は忠臣蔵の原作は事件の前にすでに出来上がっていたと見る。

これは西洋にある出来事である。

シナリオを事前に用意し、そのとおりに事実が起きるように振る舞い、結果的に歴史を創造する知恵だ。
宗教的な訓練を受けているものには常識であろう。

奇跡を起こすなどその気になればいくらでもできるはずだ。

奇跡の物語を先に作っているのだから、そうなるように工夫を重ねていけばよい。
奇跡は必ず起きることになる。

歌舞伎の興行主が、赤穂事件のあとですかさずプロパガンダ上演したので、もみ消し工作する間がなかったということかもしれない。

初演でたたいた陣太鼓が消えれば、観客はおかしいと気づくだろう。
歌舞伎では最初から最後まで太鼓で行くしかなくなったのだろう。

完璧を期したはずの黒幕自身の失態だったのかもしれない。

事件がおきる前からシナリオはかかれていた。

洗脳されてしまった大石はシナリオ通りに太鼓をたたいた、

後は事実の方を消すことで、歌舞伎の方を偽ものとするしかなかったのだろう。

人間だれしも間違いはある。

調べてみると、事件を題材にした興行は事件の翌年に初演し、3日目にあわてて中止させられている。

『討ち入り決行の翌元禄16年(1703年)には事件を曾我兄弟の仇討ちに設定した『曙曽我夜討』が上演され3日目に上演禁止となったといわれるが、史実としての確認はできていない。

討ち入り事件の4年後の宝永3年(1706年)には、この事件に題材をとった近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記』が竹本座にて上演され、以降、浄瑠璃・歌舞伎の人気題材となり、数作品が作られた。』


そもそものシナリオの始まりから見てみよう。
事件は江戸城松の廊下から始まった。

『勅使・院使の江戸下向

元禄14年2月4日(1701年3月3日)、東山天皇の勅使柳原資廉(前の権大納言)、高野保春(前の権中納言)ならびに霊元上皇の院使清閑寺熈定(前の権大納言)の江戸下向が予定され、幕府は、勅使饗応役として播磨赤穂藩主の浅野内匠頭長矩を、院使饗応役として伊予吉田藩主の伊達左京亮村豊をそれぞれ任じた。

両名の指南役は高家の肝煎・吉良上野介義央が指名された。

勅使・院使は3月11日(4月18日)に江戸に到着し、幕府の「伝奏屋敷」(現在の日本工業倶楽部がある辺り)に滞在。

浅野内匠頭もこの前日には伝奏屋敷入りしており、以降数日間にわたり吉良の指南を受けながら勅使の饗応にあたるはずであった。

勅使たちは翌3月12日(4月19日)には江戸城へ登城の上、将軍徳川綱吉に勅宣、院宣を伝奏。また3月13日(4月20日)には猿楽能を観賞している。

松之大廊下の刃傷

江戸城本丸跡(東京)3月14日(4月21日)、勅使、院使が江戸城に登城して将軍綱吉が先の勅宣と院宣に対して返事を奏上するという奉答の儀式が執り行われる予定になっていた。

同日巳の刻(午前10時ごろ)、江戸城本丸御殿松之大廊下(現在の皇居東御苑)において吉良上野介と旗本梶川与惣兵衛頼照が儀式の打合せをしていたところへ、突然、浅野内匠頭が吉良上野介に対して背後から脇差による殿中刃傷に及んだ。

浅野内匠頭は「この間の遺恨おぼえたるか」という叫びとともに斬りかかった。

吉良上野介は背後から背中を斬られ、「これはなんと」と振り向いたところを額を二回切りつけられ、気を失ってうつ伏せに倒れた。

吉良と打ち合わせをしていた旗本の梶川与惣兵衛頼照がすぐさま浅野内匠頭を取り押さえ、また居合わせた品川豊前守伊氏、畠山下総守義寧ら他の高家衆が吉良を蘇鉄の間に運んだ。

梶川らに大広間に連れて行かれる中、浅野は「上野介はこの間中から遺恨があるので、殿中と申し、今日のことと申し、かたがた恐れ入ることではあるが、是非に及ばず討ち果たしたのだ。」 とずっと繰り返した。

梶川は「もう終わったこと、殿中で大声はやめなさい」と言って黙らせようとした。

浅野は「もう放してくれ。失敗したし、処罰してくれ。もう乱暴しないから、服を直させてくれ。武家の決まり通りにさせてくれ。」
「拙者も5万石の城主だ。場所柄をはばからないのは重々恐れ入るが、乱暴な取り押さえで服が乱れた。
お上にはなんの恨みもないから刃向かわない。
殺せなかったのが残念だ。」 と言っていた。

しかし梶川達は浅野を押さえていた。

そこへ目付が来て、浅野を受け取って服を直して連れていった。
以上は目撃者である梶川による「梶川与怱兵衛筆記」により記されている。

すぐさま、浅野内匠頭は幕府目付の多門伝八郎重共と近藤平八郎重興の取調べを受け、多門伝八郎の記すところによれば、浅野内匠頭は「幕府に対する恨みは全くない。ただ吉良には私的な遺恨がある。だから己の宿意をもって前後を忘れて吉良を討ち果たそうとした」と述べている。

一方、外科の第一人者である栗崎道有によって傷口を数針縫いあわせられ、正気を戻した吉良上野介は、目付の大久保権左衛門忠鎮、久留十左衛門正清らから聞き取りを受けたが、「拙者は恨みを受ける覚えは無い。内匠頭の乱心であろう。またこの老体であるから、何を恨んだかなどいちいち覚えてはいない」と述べたとのこと。』
(元禄赤穂事件(Wikipedia)より)

この記事に書かれている浅野内匠頭の「馬鹿殿」ぶりはリアリティがある。

次は、「陣太鼓は嘘っぱち」という説を信じている人の記事だが、山鹿素行と大石の関係を詳しく説明している。

『山鹿流陣太鼓はどうして誕生したか?

赤穂藩と山鹿素行さんの関係

「大義の討入り」の象徴として音を出させる
承応元(1652)年12月から万治3(1660)年9月まで赤穂浅野藩祖の浅野長直さんが千石で当代一の大学者山鹿素行さんを江戸藩邸に招聘しました。

承応2(1653)年9月から7ヶ月間赤穂に滞在し、赤穂城の縄張りに貢献しました。

寛文6(1666)年11月から延宝3(1675)年6月まで赤穂に流罪となりました。
大石内蔵助さんの8歳から18歳までの間、素行さん内蔵助さんの大叔父頼母助良重さんの屋敷に居ました。

そんな関係で1681(天和元)年11月に素行さん(60歳)は赤穂藩主の浅野長矩(15歳)に押太鼓を貸しています。

1683(天和3)年3月に長矩さん(17歳)は勅使饗応役を大役を果たました。

この時世話をしたのが大石頼母助良重さん(65歳)で、指南役は吉良上野介義央さん(43歳)でした。

まったくの出鱈目でなく、こうした背景があって、静かな討ち入りでは様にならない。

そこで、「大義ある討入り」を象徴させようと、音の出る「陣太鼓」と、幕府に反逆した軍学者山鹿素行さんとが結合したのではないだろうか。』
(「討入名場面”山鹿流陣太鼓”これはフィクション」より)
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews07/news201.htm

山鹿素行が(60歳)は赤穂藩主の浅野長矩(15歳)に押太鼓を貸したとある。
これが山鹿流陣太鼓なのだろう。

次に主君浅野の勅使饗応役の世話役として、赤穂藩より大石内蔵助の大叔父頼母助良重が当たっていたことがわかる。

『大石良重(おおいし よししげ、元和5年(1619年)頃 - 天和3年5月18日(1683年6月12日))は、江戸時代前期の武士。
赤穂藩浅野家の家老。
『忠臣蔵』で有名な大石良雄の大叔父。通称は頼母助(たのものすけ)。』(大石良重(Wikipedia)より)

指南役が吉良上野介である。
吉良の指南は赤穂藩家老の大石良重が受けてそれを浅野につなぐという形をとったのであろう。

松の廊下刃傷事件の目撃者である梶川による「梶川与怱兵衛筆記」をさきに掲載したが、その場面に藩主の世話役である大石良重の名前がどこにも出てこないのは不自然なことである。
大石良重がそのときどこにいて、何をしていたか調べる必要がある。

その大石良重の屋敷に山鹿素行は10年間も住んでいた。

これまで赤穂に山鹿素行は都合二度行っている。
一度目は1653年9月から7ヶ月間で「赤穂城の縄張りに貢献」とあるから、築城あるいは改築の土木設計の手伝いに行ったのであろう。
戦闘を考慮して城の造作を考える必要があるからだ。

「赤穂に二度行ったことがある」というからには、それ以外は山鹿素行は江戸の屋敷に住んでいたことになる。
山鹿素行は10年間も住んでいた大石良重の屋敷とは、江戸にあった屋敷だという理解になる。

江戸で20年間も山鹿素行と同居していれば、大石良重の思想は一体ものとなっている可能性が高い。

二度目は流罪で赤穂藩預かりとなったようである。
幕府から赤穂へ行けと流罪宣言されたということになろう。

流罪に処したのであるが、それまでに召抱えられていた赤穂藩を流罪先にしてくれたということだ。

流罪になった理由は、山鹿素行の過激な思想にある。

流罪先に配慮を加えさせたのは、おそらく江戸城大奥を支配していた春日局かその義姪の祖心尼であろう。
祖心尼は、会津生まれの山鹿素行育ての親といってもいい女性である。

加賀前田藩の養女となっていたとき、キリシタン大名の高山右近と必要以上に親密な関係になったという説がある。
加賀前田家の親族に嫁いでいたが、それが理由で離縁されて会津の町野家へ嫁入りしている。

その 町野家に居候していた浪人山鹿貞以の子として山鹿素行は生まれ、町野家の正夫人である「お奈」(祖心尼)に育てられた。
素行に母はいたが、その名は残されていない。

会津の町野家は、妙な居住者構成ではある。

町野氏は加賀前田藩を追い出されたお奈(祖心尼)を嫁に取らされたという雰囲気がある。

祖心尼は牧村お奈(おなあ)といった。
キリシタン大名牧村利貞の遺児である。

山鹿素行と大石の関係は、私が知っていた以上に深かったようである。

だからこそ、討ち入りに際し大石は山鹿流兵法に則って太鼓を鳴らしたと思いたい。
その太鼓は、山鹿素行から直接浅野内匠頭に渡された押太鼓である。
押太鼓の貸与は、山鹿素行の思想伝授の証と言ってもよいだろう。

ここで歌舞伎の原作者の心を考えてみよう。

現代の世間では討ち入りのときの陣太鼓は創作といわれている。
しかし、井沢元彦氏は事実であると言っている。

歌舞伎で陣太鼓はどう扱われているのか。
私は歌舞伎にはうといので、忠臣蔵を見物した人のブログを見てみよう。

なんと、歌舞伎ドラマの陰の主役は平戸藩主松浦侯で、吉良家の隣に住んでいたという。

隅田川の向かい側に江戸時代の松浦藩上屋敷があったと私は以前確認していた。
しかし、事件のあった元禄14年にどこにあったかまでは確かめていなかったから、吉良の隣家に住んでいた可能性は否定できない。

赤穂事件が起きてしまえば、その地は住みづらくなるはずだ。
暗殺仕掛け人の一人が松浦候であれば、死人の霊が漂う場所では暮らしたくはないだろう。

この記事には吉良屋敷の隣が松浦侯の屋敷だと書いている。
しかも隣人同士で犬猿の仲だったという。

『(俳人)基角(きかく)は(討ち入りした浪士の一人)大高源吾の妹のお縫(おぬい)ちゃんの、腰元奉公の世話をしました。
懇意にしている松浦候のお屋敷でお縫ちゃんは働いています。
お殿様にも気に入られてなかなか待遇はいいみたいですよ。

さて、大高源吾、基角にむかって
「討ち入りはしない、今は貧乏でも静かに暮らすのが楽しい」と言います。

ふぬけたことを聞かされて、基角はちょっとがっかり、でも寒そうだから着ていた羽織をあげます。
松浦様からいただいた大事な御紋付きだけど、まあいいや。

チナミに関係ないですが、見た目ペラペラの羽織一枚上に着たって大差ねえだろうと思うかもしれませんが、ああた一度おかいこ総裏付きの羽織を着てみればいいんです!! 軽くてあったかいー!!

さて其角、今日も松浦候のおうちで俳句、というか連歌の会です。
じつはこの松浦候が主人公です。

実事(じつごと、歌舞伎の役柄のひとつ)でありながら華のある、かなりオイシイ役どころですよ。
とはいえ普通にやるとコミカルな部分が安っぽくなってしまうので、もちろん誰にでもできる役というわけではありません。

ところで、ここポイントなんですが、松浦さまのお屋敷は、問題の吉良上野介のお屋敷のお隣りなのです。 

まあ当時の旗本屋敷なので敷地はムダに広いです。
広大な庭が間にあります。
今日びの「お隣」とは感覚違いますが。

えっと、だいたい今、都内(区内)で、小中学校→もと旗本屋敷 大学→もと大名屋敷、と思えばいいです。
昔の地図と見比べるとそんなかんじです。
広さが感覚的におわかりいただけるかと思います。

上機嫌で連歌を楽しみ、お気に入りのお縫ちゃんにお茶を入れさせていたりした松浦候、大高源吾の話を聞いて怒り出します。

「吉良ムカツク」と思っている松浦候、ずっと「いつ討ち入るか」楽しみでしょうがなかったのです。って子供ですか。
お縫ちゃんまで、とばっちりでクビにされそうになります。そんなー。

というかんじで、まあ、後半は見てりゃわかります。

太鼓の音が聞こえてきます。
お隣で討ち入りです。わあい。

ここで、太鼓の音を聞いて松浦さまが指を折って数えるシーンがあります。

大石蔵之助の学んだ兵法が「山鹿流」なのですが、この流派の陣太鼓の打ち方が独特なのです。

「三丁陸六ッ、一鼓六足、天地人の乱拍子」(さんちょう りくむっつ いっこ ろくそく てんちじんのらんびょうし)って意味わかりません。
まあそういうのを指を折って数えているのです。

「この打ち方は、大石殿だ!! 討ち入りかー!!」というかんじです。

三波春男先生の歌「俵星玄蕃(たわらぼし げんば)」によると、

♪ひと打ち 二打ち 三流れ
あれは 確かに 確かにあれは 山鹿流儀の 陣太鼓♪ 

だそうです。

大高源吾の役者さんが上手でかっこよくて声がいいと、討ち入りが終わって大高源吾があいさつに来て、討ち入りの様子を語るところが、ものすごく盛り上がります。
で、役者さんがイマイチだとダレますよ。 

あとセリフが聞き取れないと、ちょっと長いからつらいかもしれません。
なんとなく「かっこいいー」で乗り切ってください。

大高源吾が討ち入り後、付近の武家屋敷にあいさつ&報告に回ったのは史実のようです。

まさにお芝居の設定どおり、基角と親交があったために趣味つながりで大名旗本に顔見知りが多かったからです。
というわけでこのお芝居はそれなりに史実をふまえていますよ。

初代吉右衛門(現吉右衛門のお祖父さん)の松浦候が絶品だったそうで、彼のためのお芝居のように思われていますが、初演は、意外なことに上方です。

そのときの松浦候は、初代吉右衛門の父親にあたる中村歌六(なかむら かろく)です。
明治期の名優ですが、完全な上方役者です。

今は現吉右衛門さんが得意にしていることもあって、江戸風のすっきりしたお芝居に仕上がっていますが、
数年前に仁左衛門さんがなさったとき、松浦候のコミカルな部分がかなりコテコテに演じられていて、ちょっと新鮮でした。

周囲のお客さんの反応は「やりすぎ」「違和感がある」みたいなかんじでしたが、
あの仁左衛門さんの松浦候が、初演時の雰囲気を伝えているんだろうなと思えたので、そういう意味で非常に貴重な舞台だったと思いますー。』
(「討入名場面”山鹿流陣太鼓”これはフィクション」より抜粋)
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews07/news201.htm

歌舞伎見物慣れしたお方のようである。
文面から推測するにお若い女性のように思われる。

「それなりに史実をふまえていますよ」とブログには書いてあるが、忠臣蔵の原作者もそうしたいと思ったのではないか。

「にっくき隣人吉良を成敗するために松浦藩主が仕組んだ仇討ちである」という雰囲気がこちらに伝わってくる。

歌舞伎原作者は松浦藩主の肝いりで原稿を書いたのだろうか。
山鹿流兵法は赤穂藩から平戸藩へ伝わった。

赤穂藩取り潰しのあと、山鹿素行の子孫たちは平戸を頼ったのだろう。

あとあとまで面倒を見るあたり、赤穂事件に山鹿流兵法を利用した松浦藩主の贖罪のようにも見えるが、実はそうではない。
松浦藩主のさらにバックがいるからだ。

山鹿素行を赤穂藩へ行かせた人物である。
それは松浦侯では決してない。

そして赤穂で事件を起こして武断派武士に刺激を与えることが、山鹿素行を赤穂へ流罪にした理由である。

赤穂浪士や吉良屋敷の人々の血を使って、江戸幕府打倒を狙う勢力、それが歌舞伎原作者のパトロンである。

赤穂藩がつぶされれば、そのあとは平戸藩を利用するだけのことである。

黒幕勢力の中で、松浦氏がかなりの位置にあったことは確かだろうが、歌舞伎の主役にさせられるあたりは本当の黒幕ではない。

黒幕は絶対に世間に姿を見せないのである。
だから黒幕と呼ばれるのだ。

吉良と不仲の松浦氏を利用して、赤穂事件のきっかけに利用したに過ぎない。

刃傷が起こるとすぐさま、これを題材にした「東山栄華舞台(ヒガシヤマエイガノブタイ)」が上演されたそうである。

演劇のシナリオが事件の前にすでに書かれていた可能性は高まる。
次々と赤穂事件を題材に上演を仕掛ける興行主の姿が見えてくる。

『「仮名手本忠臣蔵」の先行作品

近松門左衛門
江戸城内松の廊下における刃傷が起こるとすぐさま、これを題材にした「東山栄華舞台(ヒガシヤマエイガノブタイ)」が上演され、大石らが切腹したあとには、この事件を曽我物語になぞらえた「曙曽我夜討(アケボノソガノヨウチ)」が上演された。

大石の一味の大高源五とも交わりのあった、芭蕉の弟子の其角が、「曙曽我夜討」の上演について、大阪在住の近松門左衛門に次のとおりの手紙を送っている。

[……]此程の一件も二月四日に片付候て甚噂とりどり花やかなる説も多く候て無上忠臣と取沙汰此節其事計に候境町勘三座にて十六日より曽我夜討に致候て十郎に少長五郎に傳吉いたし候へども當時の事遠慮も有べきよしとて三日して相止候[……]「古今いろは評林」天明五年(1785年)

つまり、2月4日に赤穂の浪士全員の切腹で事件は決着して、町の噂はこの人々のことばかり、様々な説が飛び交い、この人々こそ真の忠臣だ、などとにぎやかな最中に、16日より江戸の境町の中村(勘三郎)座で「(曙)曽我夜討」が幕を開けたが、時節柄をわきまえて少しは慎めとばかりに三日後に上演差し止めになった、というのである。

近松門左衛門は、吉良邸討ち入り後に「傾城三ツ車」を書いているが、1706年(宝永3年)5月に、事件の輪郭を仄めかせた浄瑠璃「兼好法師物見車」を書き、1710年(宝永7年)前後にその続編として「碁盤太平記」を書いた。

「兼好法師物見車」では主人公は八幡太郎だったが、「碁盤太平記」では大星由良之介と改名され、明らかに大石内蔵助とわかる人物造形がなされ、討ち入りも詳細に描かれている。』(忠臣蔵と大佛次郎より)
http://goodfeeling.cocolog-nifty.com/camarade/2004/10/_8.html

上演を中止した理由は、山鹿流陣太鼓のあまりのリアルさにあったのではないか。

山鹿流陣太鼓は実在した。
山鹿素行から浅野内匠頭に渡された押太鼓がそれである。

大石が討ち入り開始に先立ってその陣太鼓を打ったと思うが、その根拠はこれから調べたい。
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コメント 2

百楽天

 はじめまして。

 山鹿流陣太鼓、私はなかったと考えています。

 山鹿流軍学の門下には、浅野の遠縁の大目付・仙石伯耆守もいるし、松浦静山の『甲子夜話』にでてくる天祥院は山鹿素行とは同年の生まれで山鹿門下でもあります。

 押太鼓というのは広い戦場での合図に使うもので、ふつうは大きい。
 理由は、大きい太鼓のほうが音が大きいのはにちろんですが、音の周波数が低くなる。音は周波数が低いと遠くまでとどきます。

 小型のものでも、背負った太鼓を別の人が叩きます。大将は指図はしますが、自分で太鼓を叩いたりはしません。

 討入シーンにでてくるように、左手でぶら下げて右手で打つようであれば不安定だし、あれほどの大きさでも重量はかなりあるので、体勢を維持することはできません。

 リンクされた忠臣蔵新聞では、原出典のわからないものを孫引きしたり、史料の解釈が間違っていたり、よくありました。
 たとえば、刃傷事件のところでは、私が手取り足取り教えてなんとか理解できたのですが、それでも梶川日記の現代語訳には間違いがあるんです。
 で、彼は私から教えられたことを使って、井沢元彦氏を攻撃しています。
 井沢氏の書いたものについて私は頼まれて書評を書いたことがありますが、異説をかき集めて文章をつくったようなもので、間違いだらけです。

 本所松坂町は、元禄十六年十一月の関東大地震とそれに続く大火(水戸様火事)の復興のときに吉良邸跡とその近所に出来た町屋で、吉良邸があったときには本所松坂町はありません。
 はじめ、吉良邸跡に2本の新道が敷かれ、吉良邸跡の1割ほどを御鏡師と御研師が共同で拝領しました。あと、芝田町大地などができますが、それでも吉良邸跡全体の半分以下。そのなかの一部が間もなく、本所松坂町一丁目の拝領町屋と本所松坂町二丁目年貢町屋になりました。吉良邸跡全体が本所松坂町になるまで長い年月がかかっています。
 こうしたことでもわかるように、本所松坂町の住人が討入のときに太鼓の音を聞いたというのは間違いです。

 お察しのように、あの事件は公儀主導で計画的に行われたと考えられます。ご存知かもしれませんが堀部安兵衛の従兄筋、佐藤条右衛門の覚書が再発見されました。その覚書によると、討入は静かに行われたようです。
 この覚書の信頼性を確認するために、私は、たとえば月没や夜明の時刻検証、林町五丁目の安兵衛借宅を出て、石水稲荷で祈願したのち米沢町まで行く経路とそれに要する時間など、細かいところまでチェックしています。

 ちなみに、松浦静山の『甲子夜話』にあることは、静山が分家にも同じような話があったので、100年も昔のことだし、分家にはそのときに作ったという茶匙もあるので分家のほうが本当だろうと書いています。
 当時は火災警報として板木ではなく太鼓を叩いていたことを知っているのは津軽候くらいだ、と松浦静山は書いています。これは、「本所七不思議」の「津軽太鼓」の民話が広がっていたからでしょう。

 八百屋お七は放火したのち、半鐘を打ち鳴らしたということになっていますが、お七火事の3年後の井原西鶴作『好色五人女』では、お七は半鐘ではなく太鼓を叩いています。安政三年の黙阿弥作『松竹梅雪崩』でも太鼓です。大岡越前の時代になって町にいくつもの火見櫓が立ち、そこで半鐘を鳴らしてたことから太鼓を半鐘に変えた芝居もあります。  
by 百楽天 (2011-10-24 12:50) 

StevPlaunc

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by StevPlaunc (2019-07-09 06:45) 

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