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北山さんの明治維新~長州(99) [萩の吉田松陰]

SH3B0399.jpgSH3B0399キリシタン灯篭(墓石?)

北山さんのことはあと述べる。

公園に並ぶ墓石はキリシタン灯篭のようにも見える。
明かり入れの中に像が入っており、三角に腕を組んでいるように見える。

毛利家にキリシタン重臣が確かにいたことがわかった。
毛利藩重臣熊谷豊前守元直の碑がそれを証明してくれた。

大内義隆とバテレンたちとの交流により山口が段々発展する様子を隣の安芸の毛利氏も眺めて知っていたはずだ。
また、領土拡大のためにはポルトガル商人と繋がりを持つ必要性があることも織田信長の権力拡大の要因分析により痛いほど知っていただろう。

毛利氏もザビエルと手を結んでいたことを予想していたが、そのことが確かめられてよかった。

熊谷の名に平安時代の武将を思い出している。
「安芸熊谷氏当主」とはどういう人物だったのだろうか。

Wikipediaは、「熊谷直実の末裔」だという。

『熊谷 元直(くまがい もとなお、弘治元年(1555年) - 慶長10年7月2日(1605年8月16日))は、安土桃山時代から江戸時代の武将。

妻は佐波隆秀の娘。熊谷高直の子で、熊谷信直の嫡孫。男子に直貞、二郎兵衛、猪之介。女子に天野元信妻など数名。初名は元貞。二郎三郎。伊豆守。豊前守。蓮西(法名)、メルキオル(洗礼名)。

主君との対立の末処刑され、その家名を没落させたものの、キリスト教との生前の縁からその死から402年を経て、名誉の回復がなされることとなった。

生涯
安芸の熊谷氏は源平合戦で源氏方で活躍した武将熊谷直実の末裔であり、鎌倉時代初期に安芸に所領(三入高松庄)を得て以来安芸に土着した一族である。

南北朝時代以降は安芸武田氏の家臣となり、その衰退後は安芸において台頭した毛利氏の傘下となった。
元直の祖父の熊谷信直は娘を吉川元春(毛利元就の次子)に嫁がせ、16000石の所領を持つなど毛利氏の縁戚として重用されていた。

元直は父の熊谷高直が1579年に祖父の信直に先立ったため、家督を継承する。
主君の毛利輝元に従い、四国征伐や九州征伐、小田原征伐や文禄の役などに従軍して活躍する。

1600年の関ヶ原の戦いにおいて西軍についた輝元は安芸国をはじめとする所領を減封されることになり、元直も伝来の所領と三入高松城を失い、ともに周防長門に移り、8000石を領した。

これ以前の1587年、黒田孝高の影響を受けてキリシタンとなっていた(洗礼名はメルキオル)。

当初はキリスト教に熱心ではなかったものの、次第に熱心な信者となり、豊臣秀吉の棄教令の後も信仰を守り、毛利領のキリスト教信者の庇護者となった。

主君の毛利輝元にもキリスト教の棄教を命じられたが元直はこれも拒絶する。
元々元直は家中での権勢を背景に独断専行の傾向があったこともあり、輝元の強い不興を買う。

1604年より輝元は、新たな毛利氏の本城を萩城と定め、重臣である元直と益田元祥にその築城を命じた。

その際に益田元祥の家臣が元直の一族の天野元信の配下の者から築城の材料(五郎太石)を盗む事件が勃発する。

その責任をめぐって元直・元信と元祥は対立し、築城作業は遅延する(五郎太石事件)。
輝元は築城作業の遅延が徳川氏の不興を買うことを恐れ、また家中の反主流派となっていた元直と領内のキリスト教勢力を除く好機とも判断し、1605年に萩城の築城の遅延の責を問うという理由で兵を送り、元直は一族の天野元信らと共に粛清された。

この粛清の際に元直の妻や子の二郎兵衛、猪之介も殺害された。
また毛利領内のキリスト教関係者の多くが処刑された。』
(熊谷元直(Wikipedia) より)

熊谷に洗礼を薦めた黒田孝高(くろだ よしたか)とは、黒田如水(くろだ じょすい)のことで、キリシタン大名ドン・シメオン黒田官兵衛のことである。
この人物は秀吉がキリシタンを禁止するとさっさと棄教しているから、ただ南蛮の火薬と鉄砲がほしかったのである。
棄教して仏道出家したあと如水を名乗った。

ここ萩城の石組建築工事に関するいざこざで、熊谷の信者一族が成敗されてしまったのだ。

『領内のキリスト教勢力を除く好機』という下りに、私はひきつけられた。

大内義隆の遺児は、吉見正頼の正室で大石義隆の実姉を頼って毛利が来る前からこの指月館(萩城)に住んでいたのである。
彼らはキリシタンの洗礼を受けていた可能性が高い。

1551年、大内義隆は「大寧寺の変」で自害する。
その末裔たちが萩へ移住し、関が原の戦いの後に毛利氏が萩へ移封されるまでのおよそ半世紀にわたり、この地でキリスト教の信仰を守り、大内家再興を願いながら艱難辛苦に耐えてきていたのだ。

松陰の実家である杉家の門前にあったシュロの木のそばから眼下の指月城を見下ろしながら、私は松陰の生まれた杉家も大内家家臣団の一人だったのだと直感した。

その信仰集団と、キリシタンとなった武将熊谷直実の末裔が歴史の偶然により萩で合流することとなった。

毛利家主流派は、萩領内における権力闘争のために熊谷元直を失脚させる必要に迫られたのであろう。

その目的でキリシタン重臣を殺害した毛利氏家臣団の動機は理解できないでもない。

しかし、革命成就した直後の明治新政府が隠れキリシタンを多数迫害した事件の動機がよく理解できないのである。

吉田松陰はすべての人々の自由を求めて革命に火をつけているからだ。

『吉田松陰の『草莽崛起論』
2010/12/28(火)
(1)「草莽崛起論」とは何か?
草莽 = 在野、民間、草叢の意味。転じて「官に仕えないで民間に在る人」
崛起 = 急に聳え立つ。起ち上がる。
草莽崛起の人 = 在野から奮い立ち、尊皇攘夷の「志」ある人。

(2)安政6年4月7日、佐久間象山の甥「北山安世」宛書簡(在、野山獄)
「独立不羈三千年来の大日本、一朝人の羈縛を受くること、血性ある者視るに偲ぶべけんや。那波列翁を起してフレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれど一も裨益なし。徒らに岸獄に座するを得るのみ。・・・今の幕府も諸侯も最早粋人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼みなし。」

<大意訳>
(外国通の北山に対して)三千年このかた独立を守り抜き、外国からの支配を受けたためしのない大日本が、ある日突然外国の支配を受ける事を、血気盛んな者は平然と見ていることができようか。ナポレオンが決起したように、独立国の自由を勝ち取らねば胸中の苦悩を解消出来そうもない。

獄中にいる自分には実行できないが、昨年以来、力の限り尽くそうと模索しているが収監中どうしようもない。
国や藩の為政者は酔っ払いのごとくでなす術なしだ。

この難局打開は、幕府や藩の官途に就いている者でなく、在野の「尊皇攘夷」の志を持った人(志士)しか出来ないだろう。(維新の先覚者、吉田松陰のやさしい研究入門)』(「吉田松陰の『草莽崛起論』」より)
http://kinnhase.blog119.fc2.com/blog-entry-77.html

この記事では「独立国の自由」というふうに「自由」を謳歌する対象を国家だけに限定して訳しているが、松陰自身は障害を持つ聾唖の実弟杉敏三郎をも含めて「人民の自由」を意図して書いたのであろう。

「那波列(ナポレオン)翁を起してフレーヘード」とは、『自由を吾に』という「市民の希望」を意味している。

当時の日本語にはなかった「自由」というものを表現するために、オランダ語の「フレーヘード(自由)」を原語のままに用いて書いたものだ。

こういう松陰が天下を取った暁には、隠れキリシタンに拷問を加えるはずがない。

ある意味で思想面で日本にとって危険な松陰である。
松陰は敢えて急ぎ過激派へと仕立て上げられ、急いで死すべく走らされた可能性がある。

松陰が革命前夜に死んだおかげで、ある連中は堂々とキリシタンを迫害できたわけである。

パリ宣教会はその連中に謀られた可能性がある。

つまり、松陰先生の画策した草莽崛起革命が成就したのだからどうぞバテレン(宣教師)さん日本へおいでなさいと誘われ、信じてのこのこやってきた。

200年以上も潜伏して信仰を守ってきた長崎の浦上村全信徒三千八百人が、歓喜してバテレンの前に現れてきたのである。

ザビエル来日(1549年)から数えれば、300年間に渡って育ててきたキリスト教の教えを、一気に根絶させる大きなリスクを負った信仰告白劇だった。

キリシタンと敵対する者からすれば、それは壊滅のための千載一隅のチャンスとなる。

松陰思想の流れからすれば、隠れキリシタンにも自由を与えるための革命であったはずだから、バテレン来日までは素直に認めたのであろう。

しかし、あれよあれよと出てくる無数の隠れキリシタンの存在を知って、誰かがこの国の将来に恐れを感じたのではないか。

そこで気が変わった。

松陰思想とは180度転換した新政府方針をとったのである。

つまり、「自由の拘束」、「宗教選択の強制」である。

草莽崛起の言葉を初めて松陰が伝えた人物は、「外国通の北山に対して」とあるから北山さんである。

『佐久間象山の甥で、松代藩士。
嘉永6年江戸遊学中から松陰と相交わる。

安政2年正月藩の表番医となったが、その後安政4年長崎に蘭学研究のため赴き、帰途同6年4月萩に帰り密かに獄中の松陰を訪ね何事か策謀したが遂に果たせなかった。

文久元年正月長州藩練兵場を設けると招聘されて騎兵書を講じ、また和蘭の兵書を翻訳したことがある。

帰国後発狂して一時座敷牢に入れられ漸く回復し、明治3年8月再び発狂し母を殺し、自らも9月病死する。
』(「北山 安世(~1870)」より)
http://www9.ocn.ne.jp/~shohukai/syouinkankeijinnbuturyakuden/kankeijinbutu-k.htm

北山さんは、長州藩練兵場で騎兵書を教えた人物で、佐久間象山の甥である。

明治元(1868)年萩に送られてきた浦上崩れの第一陣66名は、棄教しないまま死亡したものはわずか1名であり、逃亡した2名を除き全員改心(棄教)している。
まだ被害は軽微だった。

しかし、明治2年に信徒の家族として送られてきた134名は女子供と老人ばかりだったが、彼らが改心しようとしなかった。
餓死寸前の飢え、劣悪な衛生状態、寒空に裸で放置される寒晒し、鉄砲責めなどの拷問、殴る蹴るの暴力に耐え、ほとんどの者が迫害に耐えて、数十名が命を落としている。

萩のキリシタン殉教は明治2年から過酷を極め始めた。

松陰が草莽崛起の覚悟を告げた相手、北山さんは長崎で医学を学んだ松代藩医だった。
長崎のシーボルトや浦上の信者たちとも音信があったことだろう。

めでたく明治新政府が成立したはずの明治3年8月、北山さんは自宅の座敷牢を管理していた実母を殺して発狂し,
翌月病死している。

病死したことにした可能性もある。

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コメント 1

長谷川勤

こんなに素晴らしいブログを残念ながら、これまで知りませんでした。
惜しいことをした気持ちです。
吉田松陰だけでなく、多くの長州人の方々も記事にされ、写真入りでわかりやすい。内容がまず素晴らしいです。
私のブログからの引用(草莽崛起論)も批判的に、かつ、建設的にコメントしていただき勉強になりました。ありがとうございます。今後も書き続けていただきたく思います。
今日(23.6.22)初めて拝見したので、時間をかけて拝読を続けたいと思います。早速、お気に入りに登録しました。
よろしくお願いいたします。
by 長谷川勤 (2011-06-22 13:42) 

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