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文之進の介錯人~長州(119) [萩の吉田松陰]

SH3B0478.jpgSH3B0478明治九年萩の變七烈士殉難之地

松陰神社本殿の左側手間の目立たない隅っこにシンプルな石碑がある。

「明治九年萩の變七烈士殉難之地」と刻まれている。
西南戦争の前の年のことである。

『松下村塾出身で、明治新政府で参議に任ぜられていた前原一誠が起こした萩の変より、130年となることを記念して、平成18年(2006)12月3日萩の變130年祭に併せてここに移設されました。 

この石碑は、明治9年(1876)、萩の変で殉難した、前原一誠をはじめとする7烈士の遺徳を顕彰するために、萩の変より100年にあたる昭和51年(1976)年に建立されたものです。

元は7烈士が処刑された萩市恵美須町にありましたが、諸般の事情により、ここに再度建立されました。』
(石碑「明治九年萩の變七烈士殉難之地」より)
http://www.shoin-jinja.jp/keidai/10.php

新政府への反乱という判定をされ、犯罪人扱いされてきたのだろう。
百年を経てようやく勤皇の志士として認められたようだ。

殉難の7人の烈士とは前原一誠以下だれだろう。

『玉木文之進(山口県萩市・護国山墓地)

萩藩士。
文政三(1820)年11歳の時、玉木十右衛門正路の跡を継いだ。
天保十三(1842)年初めて松下村塾を開き人材の育成に努めた。
とくに吉田松陰・杉民治・宍戸某・久保断三らはその逸材である。

その後、藩学明倫館の都講、異船防禦掛等を勤め、また進んで諸郡(小郡・吉田・船木・上関・奥阿武・山代等)の代官を歴任して民政に力を尽くし、郡奉行をも勤めた。

明治二(1869)年に隠退して再び松下村塾を興し、教育に専念したが、明治九(1876)年萩の前原一誠の乱に師弟数人が一味したことの不徳を自責し、11月6日先塋の側で切腹した。享年67歳。

玉木さんのスパルタ教育は有名で、どんな文献を採ってもその峻烈さが描かれています。
吉田松陰さんも、そして後に日露戦争で第三軍司令官として旅順攻略に当たる乃木希典大将もその薫陶を受けています。
今の日本に武士が育たない理由もわかる気がしますね。

奥平謙輔(山口県萩市・大照院)

萩藩士。
藩校明倫館に入り、安政六(1859)年その居寮生となった。
文久三(1863)年8月選鋒隊士として下関外船砲撃に参加し、元治元(1864)年7月世子上京に従ったが、禁門の変に途中から帰国、慶応元(1865)年4月に長兄数馬の養嗣子となった。

慶応二(1866)年5月干城隊に入り、慶応三(1867)年同隊引立掛として討幕軍に加わり、慶応四(1868)年越後・会津に転戦した。

明治二(1869)年4月越後府権判事として佐渡を治め、8月辞職して萩に帰った。

明治三(1870)年脱退暴動に干城隊を率いて山口藩邸を守衛したが、明治九(1876)年前原一誠と意気相投じ、10月萩の乱を起こして敗れ、11月出雲宇竜港で捕えられ、12月3日ついに萩で斬首された。享年36歳。

前原一誠(山口県萩市・弘法寺/山口県下関市・桜山神社)

萩藩士。
天保十(1839)年父の厚狭郡船木村出役に従い移居し、武術を幡生周作に、文学を国司某・岡本栖雲に学んだ。
嘉永二(1849)年福原冬嶺に従学したが、翌年帰萩のとき落馬のため長病を患い、武技を捨て再び船木に住して写本に努めた。

安政四(1857)年父に従って帰萩、吉田松陰に師事し、安政六(1859)年2月長崎に遊学して英学を修め、6月帰って博習堂に学び、万延元(1860)年病気のため博習堂を退き、文久元(1861)年練兵場舎長となり、文久二(1862)年脱藩上京して長井雅楽の暗殺を謀ったが果たさず、8月江戸に行った。

文久三(1863)年正月また上京、6月右筆役となり、7月攘夷監察使の東園基敬に従って時山直八と紀州に行き、八月十八日の政変に帰国して七卿の用掛となった。

元治元(1864)年下関で外艦と戦い、12月高杉晋作と下関新地の会所を襲い、慶応元(1865)年正月恭順派藩庁軍と美禰郡に戦った時、諸隊総会計を勤めた。

同年3月用所役右筆となり、前原姓を名乗り、干城隊頭取を兼ね、5月国政方に転じ、慶応二(1866)年2月下関越荷方となり、6月幕長戦に小倉口の参謀心得として小倉藩降伏に尽くした慶応三(1867)年12月小姓筆頭となり海軍頭取を兼ね、明治元(1868)年6月北越出兵の干城隊副督となり、蔵元役と兼ね、萩から越後柏崎に上陸、7月越後口総督の参謀となって長岡城攻略に尽くした。

明治二(1869)年2月越後府判事となり、6月戊辰戦争の功により永世禄600石を賜り、7月参議に任じ、12月兵部大輔となり、明治三(1870)年9月辞職し、10月病気静養のためと称して萩に帰った。

明治九(1876)年10月奥平謙輔・横山俊彦らと党を集め、天皇に訴えて朝廷の奸臣を掃うための東上軍を起こしたが、事敗れて11月島根県宇龍港で捕らえられ、ついで萩で12月3日斬首された。享年43歳。

いわゆる萩の乱で散った悲運の将という感じを個人的には持っています。
弘法寺の奥に眠っておられますが、この弘法寺がやや見つけにくく、通り過ぎたりして難儀しました。

それでなくてもまだ回らなくてはならない場所がたくさんあるため時間がなくて焦ってましたからもうちょっとで諦めなければならないところでした。この第二次萩調査では事前準備の不足から多くの探査が未了という状況の中での数少ない成果でした。

以下略。』(「明治九年萩の変」より)
http://mahorobas.sakura.ne.jp/isinji/1876%20HAGI.htm


玉木文之進は先塋(せんえい)の傍で割腹したとあるが、「先塋」とは先祖の墓のことだ。

その墓は玉木家の祖先、つまり環(たまき)家、大内義隆の遺児の末裔だと私は考えている。

玉木は、あの椎原の松陰生誕地傍の墓所にあった「玉木家先祖の墓」の文字を持つ五輪塔のような大きな墓のそばで腹を切った。

このときの文之進の介錯、つまり首の切断をある女がした。

『玉木正誼は萩の乱で前原一誠に従い死んでいます。玉木文之進も萩の乱後、山の上の先祖の墓の前で切腹、この時介錯をつとめたのは吉田松陰の一番上の妹お芳でした。

この時のことを以下のように追懐されています。『世に棲む日日』より引用。

この日、叔父は私をよび、自分は申しわけないから先祖の墓前で切腹する。
ついては介錯をたのむ、と申されました。

私もかねて叔父の気象を知っていますから、おとめもせず、御約束のとおり、午後の三時ごろ、山の上の先祖のお墓へ参りました。
私はちょうど四十でありました。

わらじをはき、すそをはしょって後にまわり、介錯をしました。
その時は気が張っておりましたから、涙も出ませんでした。

介錯をしたあとは、夢のようであります。』
(「幕末歴史探訪 松陰と玉木文之進」より)
http://www.google.co.jp/url?q=http://www.webkohbo.com/info3/shoin/shoin.html&sa=U&ei=qlNVTaiTC4HCcci0tJ4M&ved=0CA8QFjAB&usg=AFQjCNHzbNz9eVReUV8k4pC3GcUQud1xGw


前原は、『元治元(1864)年下関で外艦と戦い、12月高杉晋作と下関新地の会所を襲い、慶応元(1865)年正月恭順派藩庁軍と美禰郡に戦った」とあるが、この行動は晋作とほぼ一体であり、松陰と晋作の遺志を継げる立派な志士だったと思う。

長い間新政府も山口県人たちも、前原たちを犯罪者扱いしてきたが、ようやく自らの過ちに気がついたということなのかも知れない。

今はささやかではあるが、境内で顕彰されるようになっている。

日露領土交渉を本日ロシアでやったようだが、いささか日本の大臣に迫力が感じられない。

もし松陰の言うとおりに明治新政府が動いておれば、今頃はずいぶん広い領土を持っていたことだろう。

前原ら7人の決起は、後世への憂いから発したものであろう。


玉木、前原、奥平、横山の名が上の記事に出ていた。
7烈士だから、あと3名いるはずだ。

石碑の右側面に7人の名が書いてあるそうだ。

「前原一誠  佐世一清  奥平謙輔  有福恂允  山田頴太郎  横山俊彦  小倉信一」が「萩の変殉難者七人」である。
 
玉木文之進は、前原らを松下村塾で指導していたということの責任を自らとって切腹をしたということだ。

私は玉木が主導した革命行動だったのではないかと疑っている。
松陰が生きていれば、松陰は吉田稔麿を総理大臣にして、玉木の望む世の中にしたはずだ。

それができなくなったから、もう一度起死回生を図ったのであろう。

「松陰神社ホームページ」に石碑の紹介があった。

石碑の左側面に「昭和五十一年歳次丙辰十月 前原一誠萩の変百年祭顕彰会建之」と刻まれていて、この碑は七烈士が処刑された萩市恵美須町にあったという。

萩の変130年祭にあわせて松陰神社へ入ることができたのはつい最近のことだった。(平成18年)

松陰も幕府によって罪人とされ、2年半もの長い間南千住の回向院の罪人墓に埋められていた。
晋作が名誉回復して世田谷の楓の木の根元に回葬している。

前原の遺骸も師匠と同じ運命を辿ったが、130年目の回葬とはずいぶん遠回りしたことである。

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